担任の体育教師が見たこともない残念そうな顔をして渡してくれた紙には
あたしの全未来がのっていた。

「えーと……これは」

「この間の模試の結果だ…、アルファベットは読めるか?」

「………それぐらい読めますよ」

「じゃ、そこにはなんて書いてある?」

「A、B、C、D、E………Eですね」

「そうだ、E判定だ」

「…………」



「はい」


「死ぬ気で頑張れ」






「ぎゃははははっ、最終模試でE判定受けたー!?」

お昼休みの校内中庭にて、あたしの唯一の友人にして悪友のシマは「あんた終わったね」と
飲んでいた紙パックのオレンジジュースを吹き出しながら爆笑した。

「いやー頑張ったつもりだったんだけどなー」

「徹夜で目はらしてたもんねー、あん時はマジ感心したよ」

「最終的には本当“つもり”だけだったね・・・面目ないっす」

「まあでもさ、あきらめてうちんとこの上の付属高校受けたら?試験はあるけどほとんどエスカレーターじゃん?」

「うーん、それがねえ」

「あーそっか、おばさんか」

家が近いという理由で入ったこの中高大一貫教育の立海大付属中学。あたしはそのままお気楽にのんびりと上の高等部へ進むつもりだったのだけれど、うちの母親の鶴の一声で県外の私立有名女子高へと進学希望になってしまった。なんでもそこは母の母校らしく、高校在学中に父と大恋愛した母は、そのふたりのかわいい愛の結晶であるあたしにも、同じ高校で同じ制服を着て青春を謳歌してほしいらしい。子供にキラキラとした夢を見るいまだに少女らしさが抜けない我が母のたっての願いだ。まあ、そのかわいい愛の結晶とやらは今最低のE判定の紙を左手に握りしめて、右手にもはや喉を通らないお昼のチーズ蒸しパンをもって、青い空を見上げてちょっと遠い目をしているわけなんですが。


まったく、自分がふがいない。


「おっ、そこゆくは我が三年の頭マジよすぎあんたら代表の三人ではないか」

「へ?」と思い、シマの指差した方向を見れば、うちの中等部の伝説的に強いテニス部の中でも特に目立っている「三強」と呼ばれる幸村くん、真田くん、柳くんが中庭を横切って、教室の方へと歩いて行く途中だった。談笑中なのか低い二つの声にまぎれて、やや高い一つの声が風にのってかすかに聞こえてくる。全国大会での三連覇は成せなかったものの、これからの彼らの展望に夢を見る者はいまだ多く、立海大付属中学内での彼らの人気は、そのまま上がる付属の高等部へと引き継がれてゆく気配だ。一人でも十分目立つのに、三人よればなおさらの事。遠目で見てもその三人の姿は威風堂々という表現がぴったりだった。

「ハアー頭よくて、運動もできて、それで顔も良くてモテるってんだから、あの三人その他大勢の一般立海男子の人生に喧嘩売ってんなー……て、あんた両手パンパンして何してんの?」

「拝んでる」

「ハ?」

「神様、仏様、三強様っ!どうかどうかその頭の良さを、ちょびっとだけでも良いからあたしにわけて下さい!お願いします!」

「……………」

平身低頭して手をあわせて念をおくるあたしに呆れて、シマは空を見上げてから、くしゃりと手に持っていた空の紙パックを握りつぶして近くのゴミ箱に放り投げた。そして、ふとそういえばと何かを思い出したような顔をして「あんたあの噂知ってた?」と聞いて来た。

「何を?」

「あの三人の中でさー、ちょい前髪揃い気味の背の高い人」

「えーと柳くん?」

「そうそう」

「いつも良い成績とるよねーこの間の模試も上位5名に入ってたし」

そこで、シマはにやりと顔を近づけて人の悪い笑顔を浮かべた。


「あの柳くんに触るとね………頭よくなるらしいよ?」


「へ?なにそれ?」と面食らったあたしにシマは「ここんだけの話マジご利益があるんだってよ」とにやにや笑って言う。

「なんでもF組の吉田は保健の授業で、隣の席の柳くんの脈拍計ったたった1分間だけで、次のテストの順位を20位も上げたらしい」

「えーー!?」

「そんでA組の多田さんは階段でつまづいた所を、後ろにいた柳くんに抱きとめてもらった次の日に志望校への推薦が決まったって」

「うっそーー?」

「そのあと多田さんが柳くんに惚れて告白したけど、見事玉砕だったらしいよ」

「あっ、そこまではご利益はないんだ」

「まーご利益くれる本人が断ったしね」

「そっか」


うーん、でもなんか嘘くさいなーと怪しむあたしにキラリと目を光らせてシマは言った。




「はい」

「あんたの判定は?」

「…………Eです」

「背に腹は?」

「…………変えられないです」

「溺れる者は?」

「…………わらをも掴みます」

どんっとあたしの背を押してシマは言った。


「掴んでこい!!」





「触る」と一口に言ったって方法は様々だ。
軽くすれちがいざまにちょんっと触れても良いし、事故を装ってあたってもいい。なんならF組との合同授業の時に気軽に話しかけてみてその隙にってのもありだ。友情の範囲内でのスキンシップなら不自然でもない、男女だからって意識しすぎない事が大切だ……ただし、これらは全て普通の人にだけきく方法で、“あの柳くん”にきくかどうかはわからない。そういや彼、あの超人テニス部の仲間内でなんて呼ばれてたっけ?えーと、んーと、あっ「参謀」だ。あれ?なんか無理そうじゃない?「参謀」なんて名前の人、触る前からすべて見透かされてそうじゃない?

誰にもバレていないはずなのに、そろりそろりとあたしは自分の教室まで戻って、そろりそろりと鞄の中から、放課後に食べようと思っていたポッキーつぶつぶ苺味を取り出した。


”将を射んと欲すれば先ず馬を射よ”
昔の人はいい事を言う。



「はぁ?柳のよく行く所を教えろ?」

ぽかーんと口を開けて馬は……と失礼、ブン太はあたしをうさんくさげに見た。


「お前なに企んでんだよ?」

「いや、別に、ちょっと柳くんていいかなー?て思って、あはは」

「嘘だろぃ?お前と3年間同じクラスだったけど一回も「柳く〜ん」なんてキャーキャー言った事ねーじゃねーか?」

「いやーもう本当、最近気になって気になって、あの細い目が夢にまで…………」

「………」

「………」


後ろ手に持っていたポッキーつぶつぶ苺味を、ササッと差し出して低頭する。

「何も聞かずこれだけ御納め下さいませっ!」

んだよ、俺は悪代官かよ?と嫌そうに言いながらもブン太はしっかりとその手にピンク色の包装の賄賂を受け取った。ふんとひとつ溜息をついて言う。

「まあ、柳ならお前一人ぐらいなんとかするだろ」

「うんうん」

パキッと良い音でポッキーを噛んで「柳は本好きだぜー図書室あたってみろ」と、ひらひらと手をふるブン太を後にして、あたしは早速図書室の方向へと駆け出した。



時刻はまだお昼休みが終わる15分前。
お弁当食べ終わって、ちょっと腹ごなしに読書でも……と足を向けるにはちょうど良いタイミングだ。ガラリと開けた図書室には古書の匂いと3割ぐらいの生徒と静かな空気で満たされていた。ひとつひとつの本棚を通り過ぎながら目的の長身を探す。歴史・伝記、地理・紀行、自然科学・医学、芸術・美術、洋書・和書………あ、いた。

柳くんは日本文学の棚の前でぱらりとページを繰っている最中だった。本棚の陰にかくれるようにして、そ〜と覗きこむと細面の白い横顔がよく見える。どうしよう?なに食わぬ顔で本でも取って近づこうか?柳くんなに読んでるのー?あーそれあたしも好きなんだよねー。うんうん、ドラマも良かったけどやっぱ原作だよねー、特にキングの格好良さが際立っててさー今じゃー西口公園て見ただけでウエストゲートパークって読んじゃうんだーあっはっは

駄目だ。
絶対柳くん「石田衣良」読まないわ。あたしが読んでるものじゃ柳くんと会話ができない。じゃあ、もうとっさにわざと本を落として、お互いに拾おうとした時にアクシデントで手が触れるってのはどうだ?漫画みたいにベタだけど、ベタはベタなりに使えるから使い回されてるんだ。優しい(多分)柳くんなら目の前でおろおろしている女子がいれば、見過ごす事はせずに一緒に拾ってくれるはず。ツルッと手を滑らせて、パサリと本を落として、キャッと手が触れる。ツルッ、パサリ、キャッだ。よし!

勢い込んで視線を柳くんに戻したあたしは喫驚した。
数秒前まで、そこの日本文学の棚の前にいた細身の姿はこつぜんと消えていた。

「え?あれ?」

わけがわからずその本棚前まで行ってみれば、まるでそこに最初から人なんていなかったかのように、し〜んとしている。



「おっかしいなー」

「何かを探しているのなら手伝うぞ?」

「ひいいい!?」


背後からの涼しい声に、飛びのくようにして慌てて振り返ったあたしは、そこに先程とまったく同じ姿勢で立っている柳くんを見つけた。


「瞬、瞬間移動?」

「そうかもしれんな」

「え?本当に?」

「お前がそう思う確率は何%だ?」

「……… 99%?」

「あとの1%はなんだ?」

「………テレポーテーション?」

「同じではないか」

「………」

「………」


(初めて知ったよ、はずい)と思い黙り込むあたしに、とんとんっと手に持っていた本を小脇にかかえて「B組のだな?」と柳くんは聞く。心なしか、口の端がなにか珍しいものを見たように上がっている。いや、でも大丈夫だ、まだあたしの魂胆はバレていない。


「うん、なんか面白そうな本ないかなーて探してたの」

「そうか、この日本文学の棚はなかなか揃えが良いぞ?」

「へー、そうなんだ、あっ!じゃこれ柳くん読んだ事ある?」

とっさにすぐ側にあった本を抜き出して、意見を聞くために近くに寄った。柳くんはその本の装丁を見る為に、やや身をのりだす。


今だ!と思いツルッと手を滑らせた。パサリと音をたてて本が床に落ちる。あたしの思惑通り、優しかった柳くんはそれを拾う為にほぼあたしと同時に背をかがめた。脳内であたしのシュミレーションとまったく同じタイミングで手が重なりかける。よし、痛いけれど、言うんだあたし!

「キャ……………………………………あ」

思ったよりも、すぐ近くに柳くんの顔があった。細い前髪がさらさらとゆれて、弧を描く切れ長の瞳があたしの目の前に、へー…けっこう睫毛長いんだ、肌白いなぁ、あっでも首筋はちゃんと男の子だ、うん…少し浮いた血管が…色っぽい…なんていうか、こう、きれいな人……だなあ。

?」

「ハッ!?」

夢から冷めるように間の抜けた声を出して、あたしは我にかえった。まって、あたし今どこに行ってた?本はまだ床に落ちたままで、その上であたし達二人の手が停止している。「ありがと、柳くん」そう言って、不自然にならぬ程度に柳くんの手に重ねるように本を取ろうとした。


ひらり


(あれ?)

きれいにあたしの手をかわして、柳くんは余裕で本を拾って「そそっかしいんだな、は」と言って、それをあたしに手渡そうとした。

「あ………ありがと」

腑に落ちぬまま、手渡された隙に触ろうと手を伸ばすあたし。


ひらり


(あれ?)

ぎりぎりの所で素早く柳くんは手をひっこめた。あたしの手にはツルッ、パサリ、キャッとして大変に役立ってくれるはずの本が、まったくなんの役にもたたずにそのままあっさりと戻って来た。


おかしい。


「柳くん………?」

「なんだ、?」

「えーと、この本は面白い?」

「すまないが、団鬼六は読まない」

「うっ…(なんたる本選ミス!ていうかなんで官能小説がこの立海にっ……!)」


じりっと一歩あたしが近づけば、じりっと一歩柳くんが後ずさる。そのままじりじりと柳くんを追いつめるような形で壁際まで行ってしまった。あたしの影が、まるで子供アニメの悪者のように柳くんにかぶさっている。お互いの探りあうような視線があう一瞬ー


「柳くん………なんであたしを避けようとするの?」

「それなら聞くが、なぜは俺に触ろうとする?」



バレてるっ!!??

心の中で叫び、しまった!と思った瞬間にはもうすでに顔にも出ていた。「図星か」柳くんは確信を得たようにそう言った。

「いや、べ、べつにそんな事ないんだからねっ!」

「そのセリフは暗に肯定している時に使われるぞ?」

「うっ………」

「なぜだ?」

「……………」

「あきらめろ、俺の確率ではもう100%を超えて、お前は俺に意図的に触ろうとしていた」

「…………(なんだそれ、あたし超変態ぽくない?)」


目をそらしてあたしは気まずげに言う。


「それは………言えません」

「そうか、それなら俺も触れさせてやる事はできんな」

「っ!」


腕を組んで少し首をかしげて柳くんは余裕の表情であたしを見下ろしていた。
口元はうっすらと笑みだ。くっそー、遊ばれているっ……!


「柳くんにはさっ…何かこう絶対に成し遂げなきゃいけない事ってない?」

「なんだ、唐突に」

「いや、例えばさ、どんな手段を使ってもやらなきゃいけないって事、誰かの為に」

「ふむ」


しばし、興味深げに考え込んで「あるな」とぽつりと柳くんは言った。


「でしょ!?だから……!」

「だが少し語弊があるな」

「へ?」

「正確には“自分の為に成し遂げる事で誰かの為にもなる”だな」


眉根を寄せて見つめるあたしに「わからないなら今は良い」と薄く柳くんは目をふせた。


「で、お前の場合それを成す為には“俺に触る”という事が第一条件なんだな?」

「……はい」

「だが理由を言う気はないと」

「……はい」

「それは残念だ、その理由とやらによっては聞いてやらんこともないんだがな?」

「ぐっ…………」


言いあぐねるあたしの目の前で、ひらひらと指の長い手をふって柳くんはきれいに笑っている。この人、絶対意地悪だっ……っ!


「………多田さん一体どこに惚れたのよ」


聞こえたはずなのに柳くんは素知らぬ顔で、その頭上でお昼休みの終わりを告げるチャイムが、キーンコーンカーンコーンと無情にもなった。


「タイムオーバーだ」

「ちょっ……」

「この本は返しておくぞ、多分俺の知っている人物の物だ」


するりとあたしの手から本だけを抜いて、柳くんはその長身を翻して追いかける間もなく、室内から立ち去ってしまった。後には、なんだか腑に落ちないままのあたしが何の収穫も得られないまま、ぽつーんと取り残された。い、いや、でも大丈夫、得られはしなかったけど何かを失ったわけではない、まだこれから頑張れば…………


あっ、ポッキーつぶつぶ苺味。





「ぎゃははははっ、あっけなく逃げられたー!?」

午後の休み時間中に前の席のシマは「さっすがあの超人立海テニス部の参謀、その二つ名は伊達じゃないわねー」と飲んでいた紙パックの豆乳を吹き出しながら爆笑した。


「きったないなーシマ、今度はかかったよー」

「ごめんごめん、、でさーあんたこれからどーすんの?」

「もっかい頼んでみる」

「あきらめないんだ?」

「うん、なんかわかんない事言われてけむに巻かれたし、ちょっとくやしーし」

「ふーん、頑張るねー」

「こうなったら何がなんでも、爪の先でも良いから絶対触ってやる」


ぴゅーと口笛を吹いてシマは「まあ、あたしがけしかけたようなもんだしね、協力しちゃる」とくしゃりと紙パックを握りつぶして「おーい」と窓際の席であくびをしていた仁王に声をかけた。


「あのさ、テニス部ってさー誰が一番先に部室に来んのー?」

「なんじゃ?やぶからぼうに」

「いーじゃん、知ってんなら教えなよ」

「そう頭ごなしに言われると教えたくなくなるのう」

「そこのドア影から覗いてる二年女子ー憧れの仁王先輩はただのケチなクソ野郎ですよーー?」

「おい、こら」

「親友の頼みのひとつも聞いてくれない心の器がおちょこサイズの男ですよーー?」

「やめんか、それにいつからお前さんと親友になった?」

「中間の時の国語ノート」

「…………..っ」

「期末の時の家庭科ノート」

「………………っ」

「サボりの時の点呼の代べ….」

「わかった」


ちっと仁王は仕方なさそうに肩をすくめて「真田と柳生は時間に正確じゃから早めに来るが………そうじゃな、大体一番先に来て練習メニューをくんだり、ノートにデータを記帳しているのは柳じゃな」と言った。「やっぱそっか、あんがと仁王」そう言ってシマはすぐにあたしに振り返り、顔を寄せて「あの鬼のようなテニス部の練習が始まったらとてもじゃないけど話しかけられないから、狙うんなら部活が始まる前柳くんが一人でいる時にしなよ、この機会を逃したらまた明日からのらりくらりとかわされるかもしれないし」と言った。

「うん、ありがと!あたし頑張るよ」

「ガツンッとかましてこい!!」

何事かを囁いている怪しげなあたし達二人をうさんくさげに一瞥し、また仁王は気だるげなあくびをして、窓の外を眺めだした。




放課後、テニス部の部室をのぞける人気のない廊下で、あたしは少しの緊張をともなって柳くんを待った。すぅーと深呼吸をして気合いを入れなおす。洗いざらい話すわけにはいかない、けれどやはりご利益はもらいたい。こうなったら誠心誠意彼が承諾してくれるまで頼み込むまでだ。

テニスバッグを背負った長身が向こう端から歩いて来て、ガラリと部室のドアを開けた。それを追ってあたしは部室前まで駆け出す。柳くんが部室内からあたしに気づいた事を認めて、あたしはドア越しに精一杯の声をはりあげて頭を下げた。

「柳くん、お願いします!一回だけで良いから!一瞬だけでも良いから!一生のお願いだから、どうかどうかあなたに触らせて下さいっ!」

何の音もしない静まり返る部室内。
柳くんは何も言わない。


「……?」と思ってそぉ〜と頭を上げると柳くんの見開かれた目と合った(え?これがあの開眼てやつ?)そしてその背後に見える、さらなる驚きに見開かれた14個の瞳ともバッチリ目が合った。

あたしの心臓が止まる。


「おいおい、マジかよ、生告白かよ」

「柳先輩……すんげえ、誰すか?その人」

さん、あなたそんな大胆な方だったとは……」

「ふふ……蓮二も隅におけないなあ」

「うっわ、仁王これか?お前が「面白い事が起こるから、今日は窓からこっそり入れ」つったのは?」

「いや、俺もまさかここまでは期待しちょらんかったナリ」


「プリッ」と言って、手元の官能小説をぱらりと繰った仁王の横で(お前だったのか、それ持ち込んだの!)大きい体をふるわせて、真田くんが顔を真っ赤にしている。


「たっ…たっ…たっ…たっ…たるんどるううううううううーーーーーーー!!!」


「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーー」

その朗々とした良い声に追われるようにしてあたしは教室まで走って逃げ帰った。






ぽんっ
「よー、柳に触りたいーバイバイー」

ぽんっ
「気をつけて帰れよー、柳に触りたいからって夜道で犯罪おこすなよー?」

ぽんっ
さーん、そんなに柳くんに触りたかったんだー?へー見えないーすごーい、またねー」

自分の部活を終えて(美術部だけどほぼ放心してた)よろよろと校門へと向かうあたしに、次々とクラスメイト達が肩をたたいて、嘲笑まじりの声をかけて去ってゆく。さっきのテニス部室でのハプニングから数えて、たった数時間しかたっていないのに、もう既に校内の半分以上の人間にあたしの奇行が知れ渡っている。ひそひそと噂をする声に耳をすませば、途切れ途切れに聞こえて来た単語は「三年間募らせた想い、涙の愛の告白、しかし体目当て」だった。

自分の中学生活のすべてが電車内のぺらっぺらっした女性誌の中吊り広告になったような思いで、あたしは暮れゆく空を見上げて深々とハアー…と溜息をついた。あっ、今誰かがうしろで「しっ、見ちゃダメ!」て言った。がくりと肩を落として、とぼとぼと校門をくぐろうとしたあたしの上に長身の影が落ちる。


「帰るのか、?」


柳くんが鞄を手に持ち、校門横の扉の前にすらりと立っていた。


「…………」

「無視か?」

「今柳くんに近づいたらあたしが通報されるから」

「ふっ」


笑って柳くんは横に並んで「送ろう」と言った。
怪訝な顔をするあたしに「心配するな、話したい事がある」と促した。


夕暮れの駅までの道は沈む日に照らされ、二人の影を長くのばしてゆっくりと染めてゆく。




「タイミングが悪かったな、あれは」

「…………」

「全員そろっている事を変には思った、俺がお前を先に止めるべきだった」

「………ごめん」

「何がだ?」

「………なんか柳くんも変な噂に巻き込んじゃって」

「気にするな、この手の噂はすぐに飽きられる」


うなだれるあたしに柳くんは優しく言った。少なからず自分にも火の粉がかかったのに、なんて事ないように言う柳くんを見ていたら、意地をはってこの醜態を引き起こした理由を言わない自分が、どうにも恥ずかしく思えて来た。


「あたしがさ、柳くんに触ろうとしてた理由ちゃんと話すよ」

「いいのか?」

「うん、でもくだらなさすぎて笑わないでね」

「ふっ、努めよう」


あたしが全部話し終えるまで、柳くんは黙って何も言わずただ静かに聞いていてくれた。あたしのひどい模試結果を暴露した時にも笑いはしなかった。


「………………というわけで成績を上げたくて柳くんに触ろうとしていたの」

「なるほど、そのご利益とやらは初耳だったな」

「はは、今考えたらそれもうさんくさい話だし、本当に話してたらあたし馬鹿みたいだね」

「だが、すべてはお前が自分の母親の為にやろうとした事なのだろう?」

「……………うん」


柔らかく言う柳くんの声に、あたしは少し恥ずかしげに俯く。


「お前は正直に自分の成したい事を言ってくれた、今度は俺が話そう」

「え?」


すっとまっすぐ前を向いて柳くんは言った。


「俺たちテニス部が夏の全国大会で負けた事は知っているな?」

「……うん」

「常勝である事を当然とし、それが誇りであった俺たちが再度敗れ、他の一般部員や、応援に来てくれていた生徒、それこそこの立海大付属中学が一丸となってかけてくれていた期待に、俺たちは報いる事ができなかった」

過ぎ去ったあの夏の日をあたしは思い出す、そういえばあの時期はなんだか校舎全体が、どんよりと暗く、妙に物悲しかった。


「だから俺たちはもうこれ以上の汚辱に三たび身をおく事は許されない、次は優勝だけだ。その決意は次の試合でも、そしてこのまま高等部の部へと上がっても変わらないだろう。必ず皆の期待を背負ってもう一度王者立海を取り戻す、それが俺たちの悲願だ」

「うんっ……」


そこで柳くんは一旦言葉を切り、あたしの方へ振り向いた。


「だがな、俺はこう思うんだ、まず俺が俺自身の為に戦わなくてはいけないとな」

「え?」

「勝ちを急いて俺自身を見失うよりも、俺が楽しんで悔いのないように試合を最後までやり遂げる事が立海大付属テニス部、ひいては俺を想ってくれている人達へ、本当に報いる事になるんじゃないか?とな、そう考えれば恐れも負ける気も、不思議と無くなる」

「……あっ」

「だから“自分の為に成し遂げる事で誰かの為にもなる”と言ったのはそういう事だ」

「そっか………」

「お前の母親の願いを叶えてやりたいという思いは尊い、だが本当のお前自身はどう思っているんだ?」

「あたしの…」

「そうだ、“お前”はどうしたいんだ?」


柳くんの視線がまっすぐあたしに注がれている。


本当のあたしはどうしたいんだろう?
心の底では、本当はー
あたしはー




「……………あたしは」


「………立海に残りたいっ」



一度本心を口にすれば、あとの言葉はぽろぽろと容易くこぼれた。

「今の友達と一緒に…みんなと一緒に高等部へ上がりたい、今の日常を捨てたくない」

それを聞いて、柳くんはよく言ったという風に笑って頷いてくれた。


「それをお前の母親にきちんと伝えれば良い、我が子の願いを曲げてまで自分の夢を見たい親はいないはずだ」

「うんっ……!」


うっすらと夕日に染まった柳くんの顔はきれいで、とても、とても優しくあたしに微笑んでくれている。


「ありがとね、柳くん………本当にありがとう」


感謝を伝えたら少し涙ぐんでしまって、あたしは慌てて目の端を拭った。




「いい子だ」




くしゃり




……あれ?
あれれ?



「……………柳くん?」

「なんだ?」

「えーと、今なにを…?」

「わからないか?頭を撫でている」

「え!?なっ!?」

「ご利益があるんだろう?」

「そ、それはそうだけど」

「遠慮するな、もらっておけ」

「……………………は、はい」


そのままずっと、柳くんはあたしがちゃんと涙を止めれるまで、優しく頭を撫でてくれていた。柳くんの手の感触は、あたしが触ろうと四苦八苦していた時には想像もつかなかったほど大きくて、暖かくて、撫でられる度になんだかさらに泣けてきてしまって、あたしは何度も何度も余計に手で顔を拭った。


もしそれこそご利益が本当ならば、この日あたしの頭は世界中の誰よりも
良くなっていただろう。








「良かったじゃん、、おばさん納得してくれて!」

「うん、本当に良かったよ」

「あたしもあんたと一緒に高等部へ上がれるの嬉しいよ」

「色々ありがとね、あっ、でも条件としてお母さんに今から成績もっと上げろって言われた」

「だよねーいくらエスカレーターのうちの高等部でもE判定が入れるんじゃー、猿でも入れるって証明してるようなもんだ」

「こら」


お昼休みの中庭であたしとシマは芝生にお弁当箱を広げて、憎まれ口まじりの談笑に興じていた。澄んだ空気が気持ちよく、頭上からぱらりぱらりと光に染まった木の葉が落ちる。


「おっ、そこゆくは我が三年のマジモテすぎあんたら代表の三人ではないか?」

「え?」と思い、シマが指差した方向を見れば、これから昼食へ向かう途中だろうか、校内中庭で幸村くんと真田くんと柳くんが、数人の後輩と見受けられる女子から、手作りの弁当やら菓子やらを差し出されていた。憮然としたきびしい顔をする真田くんと、気持ちだけはもらっておくと断る柳くんに泣きそうな後輩らを、優しく幸村くんが笑顔でフォローして、三人を代表して菓子だけを一個受け取っていた。


「ハアー頭よくて、運動できて、後輩からの信望も厚いってんだから、あの三人卒業式じゃーすごいことになんねー、その他大勢の一般立海男子が背景か、空気になるのが目に見える……て、あんたまた両手パンパンして何やってんの?」

「お願いしてる」

「ハ?」

「神様、仏様、三強様!どうかどうか、高等部に上がったら柳くんと同じクラスになれますように!お願いしますっ、お願いしますっ!」


平身低頭して、三人の神々しい背中に向かって祈るあたしに呆れて
シマは一つ溜息をついた。


「そのお願いは倍のご利益がいりそうだから、今度は触るだけじゃダメかもねー」

「あ、そうかも」

「しかも今度ばかりは当の本人に言うわけにもいかないしねー」

「うーーん」




「襲っちまえ」



「っ!!??????」








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